チャラ男の演劇論
こんにちは。毎日暑いですねえ。食事がますます億劫です。
どうもどうも。最近胃痛に苦しめられたり、自転車で横転したり、火傷したり、おじさんに追いかけられたり(皆さんも気を付けてください!)、相変わらず大学生活自体が呪われているような4回生藤井です。
舞台監督として、そして本当に最後の最後の座長としての笛にっきが残っているのでまあいいかなって感じで私的利用しています。頻度が高すぎてそろそろ怒られそうですが、まあ金曜日過ぎれば静かになるので許してください。
さて、舞台監督回では「舞台監督のすゝめ」を書こうと思っていますので、今回は書きそびれていた「チャラ男ネタ」について書こうと思います。言っといて書かないのも気持ちが悪いですからね。
それでは、どうぞ。
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「例えるなら、そうですね、白雪姫の……いや、ツイステ(ソーシャルゲーム)のヴィルみたいな感じです、まさに。」
昨夜、久しぶりに後輩と同期を交えて他愛もない話で盛りあがった。
最近の話から恋の話、演劇の話に演技の特性の話、自己分析に他者分析……たくさんたくさん深い話をした。
後輩君と似ているようで似ていない、それでいて似ている私は、同じように実は分析が好きだ。と、いうより人を見ることが好きだ。まあ、彼は理詰め、私は空気と波長、言葉の形で人を見ているのでその点は違うのだが。(いきつく結論はほぼ同じであるからおもしろい)
空気を読むという話をしたと思うが、それの延長線上でもある。その人の誕生日、好きなもの、されてうれしい話……。初対面でそれらを把握して次に会うときに覚えておく、その瞬間がとても好きだ。記憶力と空気を読む力だけはあってよかったと心から思う。
ある程度仲良くなってくると、その人の良いところを探す。その瞬間も大好きだ。気持ちが悪いかもしれないが、自己満足に留めているので許してほしい。
私に口での言語化の力があったのなら、たぶんもっとおしゃべりで、いろんな人にもっといい形でいいところを伝えられただろう。文章ならできるのだろうが、いかんせん文字数がえらいことになってしまって気持ち悪い。
だけども良いところはぜひ伝えたい。それでも、私が口に出せばとたんに「軽く」なってしまう。
なぜか?
「緊張しているから」と前に書いた。たぶんあながち間違ってはいない。ただ、色々話していく中で自分の中の点と点が繋がった。
たぶん、私の「理想」なのである。
話を少し変えて、私自身が分析された話をしよう。
ちなみに、私は自分の分析をされることも大好きだ。総じて人についての話をしているときが一番楽しい。悪口以外は。
いくつか分析してもらったのだが、順番に行こう。とんでもない自己開示であるが、私は案外自己開示のハードルが低い人間だと思う。分析されるのが好きだということに通ずるのだろう。
まず、「会話」について。会話のキャッチボールの形は一人一人微妙に違う。私的には指紋くらい違う。それぞれに癖があって、それぞれのキャッチボールの仕方に合わせる。そんな感じ。(ごくたまに合わせられない人やボールを躱す人、変化球に戸惑ってしまうときもある)
なら、私はどうか。
「いつも同じボールを返してくれるようで、不意に軽いものがきたり重いものがきたりする。同じ形で一見わからないのに、重さが違う。」
らしい。
なるほど、「重さ」か。妙に納得してしまった。自覚はちょっとだけあったが、いざ言語化してもらうとしっくりくるものである。
次に、私に合う役について。「ハマリ役」という言葉があるように、自分にピッタリとくる役というものは存在する。それは自分の特徴や性格、心の奥底、声質、様々なことが要因としてある。
私は演劇自体、「心の奥底から他人の人生を重ねる衝動」だと思っているので、それ故に演劇を始めてから人を見るということがもっと好きになったのかもしれない。
さて、私は発声の時の声と舞台上の声が違うらしい。
発声の時の鋭い声が、舞台上では喉が開ききった息の多い声になる。
発声の時の声を舞台上でできるのであれば、私に合うのは
「厳格な」医者や弁護士、裁判官。職務を全うし主人公の成長にかかわる、それでいて乗り越えられる人物。決して悪役ではないけれども、主人公の成長に必要不可欠な人物。
らしい。これを聞いて私の中の点と点が繋がった。
まず、発声の時と舞台上の声が違うのには理由がある。
しばらく自己分析をしてみたが、おそらく「声のコンプレックス」と「人の目」が要因としてあるのだろう。
「声のコンプレックス」についてはいつかの笛にっきに書いた。自分の声がどうしても嫌いなのだ。そのため、発声中は意識して低めの声で発声しているし、案外これがやりやすくもある。ただ、舞台上に立てば一転、喉がつっかえる。それは多くの人の目、私の声を聞いて幻滅されたらどうしよう、そういったある種の恐怖なのだ。
そうなればふんわりした声質になる。これがまた、私の演技に茶々を出す。
「厳格な」な部分に着目してほしい。私の心の奥底に一番近しいのはこれなのだ。言われて改めて気づいた。真面目というよりも厳格。昭和の人間に近いと自覚はしている。(むろん、そのまま凝り固まってはいけないので、時代に合わせた柔軟な考えを学んだ)
そうなると、どうだろう。ふんわりした舞台上の声に「厳格な」私?
まさにジレンマである。第一印象ではよく「幼稚園の先生みたい」と言われ、エチュードでも軽くてふわふわした役を当てられる。おそらくたぶんきっと「合ってない」。
だからこそ、色々なトラウマを取っ払って鋭い声を皆の前で出せるようになれば、きっと厳格な医者や弁護士や裁判官が映える、そういう結論に至る。
また、取っ払うべきトラウマはほかにもある。
舞台上で喉がつっかえるのは声のこととは別にもう一つ、理由があるのだ。
たぶん、私の「理想」なのである。
バカ真面目で今より他人に興味もなく、親や先生に自分の気持ちを言ったり目の前で感情を露わにしたりできず、大人のために生きていた高校時代、私にとって楽しいのは勉強だった。
まず、負けず嫌いな私は順位の出る定期テストや模試が大好きだった。
常に順位や点数を更新できるように、休み時間も机にかじりつくほどだった。
でもそれは、自分のための順位ではなかった。
先生に私を見てもらうための手段に過ぎなかった。
こんなところに個人的な写真は気が引けるが、まあこれも演劇論と繋がっているので大目に見て欲しい。下の写真は私の高校時代のノートである。
努力の量でも負けたくなかった私は、人より何か工夫して勉強できる方法はないかと考えた。その結果がこれである。A4のノート一行に二行の単語を書きなぐる。これでスペルも安心!……なんて。効率こそ悪いだろうと思われるだろうが、たぶん私に一番合っている勉強法だとは思う。良くも悪くも私らしさを一発で伝えられるノートなのだ。
だがしかし、どんなに頑張っても、どんなに努力しても、先生は「それが当たり前」と言った。私が頑張れば頑張るほど「当たり前」の基準が高くなっていった。一度上がった「当たり前」は元に戻らなかった。まだ頑張らなきゃ、まだ頑張らなきゃ……いつになったら先生の「頑張ったね」が聞けるんだろう。
邪な気持ちで、他人のためにした、私の汚い努力の跡。
ある日、課題を提出していつも通り「当たり前」をクリアした私は職員室を去ろうとした。
そんな時、チャラ男が入ってきて、ボロボロでスカスカのノートを提出した。
「えらいね、頑張ったじゃん!」
先生の明るい声が響いた。
ああ、ダメなんだ。自分だから、ダメなんだ。
きっとこの私のちょっと汚い感情も、先生には伝わっていたんだろう。変な気持ちで中途半端な努力をするから、認められなかったんだ。順位なんて小さいものに、先生に見てもらいたいという幼心に、振り回されていた自分が10悪い。
今でこそ努力の仕方については反省したが、当時は何とも言えない気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。
いつもバカみたいに真面目だからハードルが上がるんだ、私も彼みたいに……
よほどグレてやろうかと思い立ったが、私にできたのは仮病で2日休むくらい。
本当はもっと休もうかと思ったが、親は許してくれなかっただろうし、何より課題の提出が遅れてしまうのが許せなかった。自分自身に負けるのもまた、許せないのだ。精神的に向上心を持たない者はダメだ。
不器用すぎるくらい真面目、いや「厳格」とはそういうことである。
だからこそ、心のどこかで「厳格」はダメ、注目されない、地味、「チャラい」のは良い、注目される、派手。そんなことを思っていたのだと思う。
私だって舞台で輝いてみたい。たくさんの人の目に触れてみたい。私の存在価値をこれでもかと見せつけてみたい。
そんな願望に、「チャラ男」はうってつけだった。無意識にもエチュードなどで舞台上に立てばその系統の「軽い」役をやってしまう。
シリアスが合うとも言われたのに、結局私が行きつく先は「軽い」役であった。
日常生活でも、「軽く」いようという観念は無意識的に働いているんだと思う。それは「人の目」が原因であり、そういう意味では「緊張」と似て非なる。
大学に入ってから自分はずいぶん変わったと思う。
デビューと言えるほどではないが、今や「日常での」明るさや軽さ、元気さは私の数少ない取柄でもあるから。それはもう取り繕っている私ではなく、きっと笛のみんなのおかげで私のアイデンティティにできたのだ。「素」であるということはそういうことだ。
真面目な私も、軽くて明るい私も、どちらの私も私である。それを笛のみんなは受け入れてくれた。「チャラ男」にはなりきれないしなりたくないけれど、最初は取り繕った「軽さ」だったとしても、なりたい自分にはなれたような、そんな気が今はしている。染みついた、の方が正しいのかもしれない。本音を軽く言えるのは結構嬉しい。染みついたものであるから、ここに演技をのせるのはちょっと難しいのかもしれないけれど。
そう考えれば、今ならばできるかもしれない。私の「声」が出せるかもしれない。
心の奥底に眠る「厳格」が、強みになるのかもしれない。
私だけの「厳格な」役ができるかもしれない。
引退間近で、それに気づく。きっともう私が舞台に立つことはない。
それでも、私はこのことに気が付けただけでも、嬉しかったりする。
どんなにつらくても、どんなに渋い役どころになっても、どんなに呪われた出来事が連続しても、私にとって笛が「家族」だという事実は変わらない。笛に入ってよかったし、座長でいることができて良かった。心の底からそう思う。
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こんな分析をして楽しんでいる私もかなりの変人ですね、こわ。
でもね、こういうのが演劇にハマる第一歩だと私は思うんですよ。
人や自分をもっともっと見て、色々考えを巡らせて、人の話を聞いて、そうやって演技は洗練されていく。
芸術はプライドとの勝負なのかもしれません。
他者の意見というのは、どんな形であれ、良くも悪くも自分の糧にできるものだと思っています。耳を傾けることは、どんなに発声を頑張ることより、大切なことのような気がします。
頑固さも時には必要ですが、柔軟性をもっていろんな人の話を聞いてひたむきに頑張る役者は成長が早い気がします。その分伸び悩みもするのですが、そこを乗り越えられたらものすごく強くなる。
価値観がぶつかる場所ですから、色々あるかもしれませんが、まず「受け止める」から始め、「考える」につなげてみる。あらゆる場面で柔軟性を持ってみる。これが飛躍の一歩目です。……と、思います。
自信と謙虚さのバランス、ですよね。
では。最後に笛での大好きな写真をのっけてお別れということで。自分語り失礼しました。
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