厨二病であるということ

どうも、終焉神帝の右京である。


わたしの投稿を見ていればなんとなくわかると思うが、私は厨二病である。

いつになっても深淵、暗黒、終末という言葉に惹かれ、脳内設定を欠かさないお手本のような厨二病である。

無論、一人の厨二病として誇りも持っている。

冷たい反応をされてもめげない、厨二病であると堂々と公言する、一日一度は厨二病的発言を誰かの前で行うなど、厨二病をうまくキャラとして昇華させるための努力を惜しまない。


しかし、最近になって思うのだ。あまりにも厨二病は冷遇されていると。

つい最近のことだ。私が演じる役の設定をもう一度捉えなおそうとしていた時の話である。

その時考えていたのはいわゆる裏設定というやつである。

これは存外馬鹿にできない。裏設定は多くの人がすぐにわかるものではない。

演じている中でほんの少しの瞬間その片鱗を出し、見る人たちに「あれ?」と思わせ、考察させるためにあるものだ。

ほんの少しの裏設定が「ただ劇を見る」から「劇を考える」という状態に進化させるのである。


にもかかわらず、私の裏設定を聞いている同級生たちときたらどうだろう。

また右京の厨二病だと笑うことが多々ある。

裏設定のどこが厨二病なのだろうか。

劇の拡張を行うためにやっている行為をどうして厨二病とあざけるのだろうか。

私がそう反論すると「ハイハイ、いつものね」と適当に流すのは何なのだ。


厨二病はいつもそうである。一度その称号を得れば、何をやっても厨二病の一種としか思われない。

思想を語れば厨二病、考察をすれば厨二病、好奇心を満たそうとしても厨二病...


厨二病であることが嫌と感じたことはない。

ただ、自分の思想や行動などに厨二病というレッテルを張られることが我慢ならないのだ。


厨二病で何が悪い。

最初はみな厨二病の心を持っているはずなのだ。

子供のころのヒーローごっこは厨二病のプロトタイプのようなものだ。

それを皆は幼稚という社会が勝手に作った価値に合わせ、捨てていく。

それが本当に大人になる、成長するということなのだろうか?

厨二病のこころをいつまでも抱えているのはそんなに恥ずかしいことなのか?

生涯思春期は駄目なのか?


みんなももう一度厨二病を発症してみようではないか。

惜しげもなく自分が考えた何かになってみようではないか。

終焉神帝とでも名乗ってみようではないか。

そうすれば失っていた子供のこころをもう一度手に入れることができるのだから...


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