灯としての〈ぐずぐず〉

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。

 杉本涼真です。初めましての方は初めまして、以前お会いした方はお久しぶりです。

 筆を執る前にまず、私事ですが、最近の笛にっきの振り返りをさせていただきたく思います。どうしても語らなければならないという衝動に駆られたのです。ご了承ください。


 連日、新入団員の笛にっきが続いていました。それぞれがそれぞれの彩りを放っていましたね。二年生も、自分のスタイルが定まってきたように私には見えます。みんな、生きた文章を書くのがうまいですね。嬉々とした感情がみえるような躍動感だとか、語り尽くせないものを語ろうとする前のめりな姿勢だとか、反対に、万感の思いがこもっているように思われる余白など、感情を文章に起こすのが好きなことが伝わります。見習いたいですね。

 そして、昨日の笛にっき。私たちはなんのために、誰のために演劇をするのか、どのように舞台に向き合うべきなのか。私たちの活動の根幹に関わるような問いが、言葉を尽くして、語られていました。あえて作者の名前は伏せましょう。複雑なものを複雑なままに語る、語り 尽くそうとする。耳触りのいい簡潔なことばを使うのではなく、歯切れのいい理路整然とした物言いをするでもなく、ただ、ありのままに語ろうとする。あの方の文章には、姿勢があります。挑戦的で、しかし葛藤の渦中にあって、それでも立ち上がる姿勢。それは、荒々しい勢いと品の良さの不思議な均衡のとれた姿勢でもあります。熱のこもったしなやかな姿勢、それを私は文章から感じました。


 どうしても書き留めておきたかったんです。自分の当番日に、〈笛にっき〉という場所で、これらの感想を刻み付けておきたかった。刻み付けておかなければならないと根拠もなく確信した。どうしてでしょう。分からないですね。不思議です。おだやかでやわらかな衝動のようなものを感じたことだけは確かです。それ以上は言語化を阻まれているような気がして、述べられません。本当に、不思議ですね。

   

 さてさて本題です。といいましても、たいした話ではありません。最近における小さな発見と一さじの後悔についてです。

 〈ぐずぐずする〉という態度を、最近の私は意識するようになりました。

 いえ、別に赤ちゃん返りをしているわけではないんですよ。そうではなく、あれこれと迷って、決めかねることという意味での〈ぐずぐず〉。つまりは、優柔不断です。〈ぐずぐずする〉、〈優柔不断な〉、あるいは〈決めかねる〉。これらのことばが用いられるとき、どこか否定的な響きがともないます。ぐずぐずしていないで、さっさとしてよ。まだ決めてないの。ほんと、優柔不断だな。そんな罵声や呆れ声とともに発せられるのが、〈ぐずぐずする〉〈優柔不断な〉〈決めかねる〉ということばであるように思います。言う方も、言われる方も、なんだかいたたまれなくなる言葉でもあります。

 ですが、最近、〈ぐずぐずする〉ということは、一般的に思われているほど、そして私が考えているほど、わるい態度ではないと強く思うようになりました。それは、こんな言葉を思い出したからです。鷲田清一さんの『哲学の使い方』という新書の言葉です。とても長い引用ですが、どうかご容赦を。



「ぐずぐず」とは、決断がつかず決着を引き延ばしているうちに、やがて「自然」に引  っ張られ、流されてゆく、そんな予感に包まれた人のためらいや逡巡を表わす。身を引き裂かれる思いにさらされながら、情けないことにいつまでも決心がつかない。宙ぶらりんのままだから、当然、力が入らない。力が入らないまま、そのだれた姿をそのまま晒す。辛気くさいほどのろのろしているし、なにやらぶつぶつ言うばかりで、いつまでたっても言い分が聞こえない。そう、「ぐずついた天気」のようにいらいらさせる人、はきはきせず、切りがつかず、しまりもなく、ただただおなじところを堂々巡りするだけで、それでも焦りはしない、そういう輩にかぎって、聞き分けがなく、陰気にごねる、つまり、「ぐずる」。

 けれども、「ぐずぐず」と思い悩むことは、わたしたちは手放してはならない権利の一つである。それは、問題を前にしてじぶんの意志を決める前に十分な時間的猶予を与えられる権利であるといってもよい。これが権利とみなされるべきであるのは、ひとがなにかある重要な問題についての意見を、あるいは意志決定を求められながら、じぶんでもよく問題が掴めないときに、それについてもっと多くの情報を得るための時間、そしてそのなかでやがてある決定を下せるようになるまで、ああでもない、こうでもないと思い悩むそのプロセス――このプロセスはいつでも訂正可能なふうに開かれている――を認められねばならないからである。

 これを権利と捉えるにあたって肝に銘じておきたいのは、理解というものが時間的なものだということだ。たとえば若いころに、もし答えがでなければ生きてゆけないとまで思いつめていた問題が、歳を重ねるとともに色褪せて見えてくることがある。あるいは、あのときはわからなかったけれど今だったらわかるというころもある。さらには、一つ見えてしまうとそれが他の問題に波及し、他のあらゆることがらをもういちど一から問いなおさなければならなくなるということもある。それらの過程で、内なる抵抗も幾度となく起こる……。このように理解というものはジグザグに進んでいく。ここでは、すかっと嚙み切れる論理より、いつまでも嚙み切れない論理のほうが、重い。滑りのよい言葉には、かならず、どこか問題を逸らせている、あるいはすり替えているところがある。理解には、分かる、解る、判る、あるいは思い知る、納得するといったさまざまな様態がある。そのあたりのことが見えてくるまで、ぐずぐず、しこしこ考え続けるところにこそ、先の「哲学すること」の強度もある。時代はなかなかそれを許そうとしないが、その時間を削ぐことだけはしてはならないとおもう。その時間こそ人生そのものなのだろうから。(鷲田清一著『哲学の使い方』初版、岩波書店、岩波新書、2019年、p.p.227-229)



最初に〈ぐずぐず〉の定義が、次に〈ぐずぐず〉が権利であるという主張が、最後に〈ぐずぐず〉を権利とするうえでの理由――理解するということは本来時間のかかるもの、時間によって変化するもの、であるために、明快で即決な意志決定、簡潔で裁断的な主張なんてできるものでもないし、するべきでもない――、の三点が述べられています。

 これを最初に読んだときはおどろきました。〈ぐずぐずする〉ことが権利なんて馬鹿な、と。しかし読む中で、自分がいかに多くのことを取り零す人間であったのかを思い知らされました。わかりやすく、はやく、的確に。自分が心掛け、実践しようとしてきたことです。これらを心がける態度はきっと、勢いがあったでしょう、力強かったでしょう。しかし、大股早足で進むあまりに、私は、あまりに多くのものを見逃し、踏み散らしてきたことに、最近、気がついてしまいました。振り返ると放ってきたもの、捨ててきたものが私を苛みます。当時はまわりも息が詰まる思いをしていたでしょう。私自身もわかっていたのかもしれません。無理がある、と。迷ってはならない、〈ぐずぐず〉してはならない、進まなければならない、成長しなければならない、時間通りに計画通りにしなければならない。ならないならないならないならない。義務の呪詛。そんな強迫観念のような想いが私にはあって、それから逃れるように進んでたように、今は想い起します。当時の私は、けっしてわるいわけではなかった、しかし、けっして褒められたものでもなかった。それが正当な評価でしょう。それでも、依然として、私は多くを取り零してたという事実は、振り返ればいつも佇んでいます。何も言わずに。しかし、時に沈黙は多くを語ります。私の場合は耳鳴りという形で。

 もっと〈ぐずぐずする〉べきだったかもしれない、という後悔を、今になって〈ぐずぐず〉思い悩んでいる。皮肉ですね。しかし、鷲田清一さんに倣うならば、それも「人生」だということになるのでしょう。なんだか、笑えてきますね。

 私を揺さぶった〈ぐずぐず〉肯定論ですが、この論の提唱者は、ほかにもいるようです。例えば、科学にも精通していた哲学者パスカルなど。「人間は一本の葦である」はあまりに有名ですね。そんな彼もまた、〈ぐずぐず〉して決めあぐね、立ちどまることについて述べています。



すべてが一様に動くときには、船の中のように、見たところ何も動かない。みなが放縦のほうへ向かって行くときには、だれもそちらに向かって行くようには見えない。立ち止まった者だけが、固定点の役割をして、他の人たちの行き過ぎを認めさせる。(パスカル著;前田陽一訳『パンセ:1』再版、中央公論新社、中公クラシックス、2004年、断章三八二、ラフュマ版六九九、p.267)



みんなが動くなか、ひとりぽつりと立ち止まる人がいる、その人が実は歯止め役になりうるのだとパスカルは言います。〈ぐずぐず〉する人は「固定点」、言い換えれば、座標軸あるいは、灯台になることができる。座標軸として基準を見定める、そして灯台として明かりを保つ。

 〈ぐずぐず〉者による仄かな明かり。なんだ。〈ぐずぐず〉ってかっこいい役目じゃないか、とさえ思います。

 

 わるいことのように思って、いつも置いてけぼりにしていた〈ぐずぐず〉を、それもまたいい、と最近は思えるようになった。それが私の心の最近の出来事、小さな発見。〈ぐずぐず〉への一歩です。

 しかし、この一歩は正しい判断なのでしょうか、それとも間違った判断なのか、いや、どっちとも言えないなぁ、うーん……、どうかなぁ。

 ぐずぐず。ぐずぐず。

 

 うん。わるくない響きですね。



 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 長々、くどくどとすみません。これもまた〈ぐずぐず〉の一つと思ってご寛恕を請います。

 なんて、自分で言っては世話がないですね。

 それではまたお会いしましょう。

 失礼しました。

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【劇団笛 令和3年度 冬公演】

『マリオネットに花束を』

脚本:藤井唯 演出:橋ヶ谷良太

日時:令和4年1月16日(日)

13:00開演・17:00開演

(30分前から入場可能)

料金:一般800円 学生 500円

(高校生以下無料)

場所:C.S.赤れんが ホールⅡ

山口大学演劇サークル劇団笛公式ホームページ

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