時間との徒競走
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
四回生の杉本涼真と申します。初めましての方は初めまして、以前お会いした方はお久しぶりです。
いよいよ、四回生の杉本涼真、と表記しなければならない時期になりました。率直に申し上げて、慣れません。あまりの早さに心が追いついていかず、あたふたしています。いつも時間との徒競走に負けている気がします。懸命に走っていると、何食わぬ顔で後方より過ぎ越していくのです。たまに振り返るかと思えば、ほくそ笑み、また駆けていく。こちらはいつも苦虫を噛み潰す想いをしているというのに。今回も案の定抜かされていきました。足速いなあ、あいつ。
そうして四回生としての生活が始まり、春公演の練習もまた始まりました。まだまだ春も半ば、梅雨も越していないというのに、練習終わりは汗だくの毎日です。身体の末端まで意識を張り巡らしながら、舞台空間の外にまで声を届ける。減り張りの効いた動作と台詞回しをどこまでも忘れることなく、しかし同時に、その全てを忘れて役になりきる必要がある。そんな緊張と緩和の体系のなかで、自らを忘れつつも自らを意識する。そう、舞台稽古はほとんど修行なのです。幸い筋肉痛には悩まされていませんが、もう二十歳を超えた身です。忘れた頃にがたが来てもおかしくはありません。体が動くうちにできるだけ活力を放出していきたいです。たまには全力疾走をして、今を生きて、時間の鼻っ柱を折らないといけませんからね。修行にも抜かりはありません。
そうはいうものの、稽古場の空気が粛々と冷え返っているのかといえば、全くそんなことはありません。むしろ、空気の構成はその正反対、どたばたと動きと笑いの絶えないまるで幼稚園のような成分で満たされています。そう、つまり喧しい……失礼、騒々しい……、ごほん、元気いっぱいなんです。まるで演劇を作りながら、遊んでいるかのようです。遊び、といってもこれは決して、真剣でないということではありません。どこまでも真剣に遊んでいるのです。笑顔の絶えない空間で、しかし、だれもが演劇のことを真剣に考え、舞台を生みだそうと力を尽くしている。そんな空間なのです。そう考えれば、修行という表現も悪くはありませんが、遊びといってもいいのかもしれません。
遊びは真面目でないもの、と言うことはできる。しかし、この言い方は遊びの積極的資質について何も語っていないし、その上にまたおそろしくあやふやだ。遊びは真面目でないもの、と言うかわりに、遊びは真剣でないとでも言おうものなら、たちまちこの対置は我々を窮地に陥れる。なぜなら、遊びははなはだしばしば真剣であるからだ(ヨハン・ホイジンガ著;里見元一郎訳『ホモ・ルーデンス:文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』講談社、講談社学術文庫、2018年、p. 23)。
遊び研究の大家であるホイジンガの言葉です。演劇も遊びの一つと考えると、演劇はパソコンに向かって仕事をするような「真面目」な活動ではありません。しかし、演劇が「真剣」でないものであるのかと言うと、まったく当たりません。演劇はどこまでも真剣にならなければなりません。音響と照明の設定とその配合具合、調整、演技との釣り合い、場面と役者の演技の噛み合い具合、大道具の製作日程の調整。数え上げれば切りない活動を、真剣に取り組んでいるのです。しかしそれは、「真面目」なものではありません。ここでの「真面目」とは、楽しくない、非積極的な、義務的/命令的活動のことです。演劇はそんな狭苦しいものではない。演劇は活きているのです。
だから、きっと、今日のこの汗も、全体を覆う微かな疲労も、それは真剣な遊びの結果なのだと思います。真面目に未来へ向けて走ることだけが、時間への勝ち方ではないのかもしれませんね。
力を出し尽した今日は、生活の隅々が輝いて見えます。ご飯も美味しかったです。そういえば、太宰治が滋味深い言葉を残していました。
よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ
(太宰治「葉」『晩年』改版、新潮社、新潮文庫、2005年、p. 28)
家に帰って、団員が撮影した稽古場の写真を見て、そこに写る砕けた顔を見て。きれいだなぁ、と思って、今日が終わろうとしています。きっとこの顔は、時間に執着しているときには見つけられなかった顔だと思います。
この顔をほくほくと抱いて、眠りにつこうと思います。
今日も、素敵な一日でした。
本日はお付き合いいただきありがとうございました。
それではまたお会いしましょう。
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