聴覚情報に対する個人の受け取り方とその利用について
初めての人はこんにちは。
そうでない人はお久しぶりです。
劇団笛OBの細田です。三年です。
いやはや、しみついた悪い癖はなかなかとれないもので…
本当は昨日のうちに書かなければいけなかったであろうこの笛日記も
結局今日書いております。
もともと文章書くの苦手…いや、いいわけです。
制作さんやWEB管理さん、申し訳ない。がんばってちゃんとします。
さて、昨日の練習では面白いワークショップ?をやりました。
とはいえ文章で説明するのはちと酷かな。
てかちゃんと見てないけどすでに書かれてたりする、のか?
…まあいいや。
そのワークショップに対する自分の見解です。
あ、細かい内容は割愛します。だって自分の貧弱な文章力では
あれは説明できないから…。すいません。
で、
数ある選択肢の中から何を選ぶか、ということから
まずセンスが問われると思います。
本来筋道を立てて物語を展開させる役割を持つ「台本」から、
無作為にひとつのパーツを取り出す。
そのパーツは、きっと受け取る人によって
それに含まれるニュアンスは全く異なるものになるのだと思います。
一度自分の中でそれを消化し、
今度は自分から発語しようとした場合には
自分の中でのニュアンスが含められ、別のものとして発語される。
ただし、それはそのパーツを「意味」として受け取った場合。
パーツを記号として、音として受け取った場合は
その中にある意味やニュアンスをある程度無視できる。もしくは
意図的に無視するために
そういった受け取り方を選択するのではないかと考えられます。
その場合は記号を記号としてそのまま発信することも可能でしょう。
もちろん、不可能な領域もあるとは思いますが。
つまりこれは、音が記憶して発信されるか、反響するかという違い。
いろんな要素が関係してどちらが選択されるか、
という面白みがあるのではと思います。
自分は、最近意図的に記号としてとらえることが
多いような気がします。それを自己で消化することをどこかで
恐れている。あるいは、以前消化しようとしたもので
胃もたれでも起こしているのでしょう。
長くなりましたが、終わりです。
そうでない人はお久しぶりです。
劇団笛OBの細田です。三年です。
いやはや、しみついた悪い癖はなかなかとれないもので…
本当は昨日のうちに書かなければいけなかったであろうこの笛日記も
結局今日書いております。
もともと文章書くの苦手…いや、いいわけです。
制作さんやWEB管理さん、申し訳ない。がんばってちゃんとします。
さて、昨日の練習では面白いワークショップ?をやりました。
とはいえ文章で説明するのはちと酷かな。
てかちゃんと見てないけどすでに書かれてたりする、のか?
…まあいいや。
そのワークショップに対する自分の見解です。
あ、細かい内容は割愛します。だって自分の貧弱な文章力では
あれは説明できないから…。すいません。
で、
数ある選択肢の中から何を選ぶか、ということから
まずセンスが問われると思います。
本来筋道を立てて物語を展開させる役割を持つ「台本」から、
無作為にひとつのパーツを取り出す。
そのパーツは、きっと受け取る人によって
それに含まれるニュアンスは全く異なるものになるのだと思います。
一度自分の中でそれを消化し、
今度は自分から発語しようとした場合には
自分の中でのニュアンスが含められ、別のものとして発語される。
ただし、それはそのパーツを「意味」として受け取った場合。
パーツを記号として、音として受け取った場合は
その中にある意味やニュアンスをある程度無視できる。もしくは
意図的に無視するために
そういった受け取り方を選択するのではないかと考えられます。
その場合は記号を記号としてそのまま発信することも可能でしょう。
もちろん、不可能な領域もあるとは思いますが。
つまりこれは、音が記憶して発信されるか、反響するかという違い。
いろんな要素が関係してどちらが選択されるか、
という面白みがあるのではと思います。
自分は、最近意図的に記号としてとらえることが
多いような気がします。それを自己で消化することをどこかで
恐れている。あるいは、以前消化しようとしたもので
胃もたれでも起こしているのでしょう。
長くなりましたが、終わりです。
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