3日酔い

 人生2回目の飲み会で盛大にやらかしたようです。金輪際人前で飲酒はしません。怖い。

 最近参加させていただいた演劇公演で、沢山の新鮮な発見がありました。観客と演者に境がなく、観客が一人称・二人称・三人称全ての視点を持つことができる不思議な公演で、小学生や社会人の方々と共演したのですが、忘れていたことを思い出したり、知らないことを教えてもらったり、大収穫でした。特に、子供に触れることがどんなに恐ろしく苦労することかを思い知ると同時に、彼らから見た大人も恐ろしく扱いづらい存在だったのだということに気付かされたのは、驚きです。大人と子供の抱える寂しさは、ほとんど同質なんでしょうね。そう思います。

 続いて演劇とはなんぞや、という、演劇に関わり始めて以来度々行っている思想的模索の経過を報告。
 演劇の成立について。ある演劇に、観客が1人もいない場合、それを演劇と言えるのか。
自分は、芸術としての演劇であっても、大衆娯楽としての演劇であっても、オーディエンスの存在は必須なように思っています。
 そこで、観客について考えてみました。演劇の観客は、テレビドラマや映画の視聴者と同じく、コンテンツ消費者としては第二者ですが、そこで繰り広げられる出来事、話に対しては第三者として存在し、第三者の目線で眺めます。こうした出来事に対する第三者の視点は、出来事を“物理的事実”から“概念”に変換する役割をもっているのではないでしょうか。どんな出来事も、観測者があって初めて“事実”から“事象”へ、“情報の集積”から“物語”へ変換されているはず、これはいわば「認識」(「認識」すること、あるいは「認識」の主語)が物事に大きく影響していることの例ですよね。恐らく演劇も第三者の目がなければ何でもない、ただ他人の真似のしあいっこという、不思議で不毛な動作になってしまうのだと思います。
 だた、ここからが重要なんですが、この「認識」の主語は、観客だけでなく演者とすることも可能であって、その場合、この他人の真似のしあいっこは、演者の視点からは何かしら遊び的な意味を持つと解釈することもできます。そしてその場合には観客は、この真似遊びからは完全に置き去りにされてしまって、不必要な存在にされてしまうんです。観客は第三者なので、遊びには参加できませんからね。
 結局、何が言いたいのかというと、「演者が物語を繰り広げること」と、「演者が誰か他の存在を真似ること」の、どちらを演劇と捉えるか?という問題が、演劇界にはいつも横たわっている気がするのです。前者には観客が必要ですが、後者には必要ない、という差で、演劇関係者全員の見方がそれぞれこの二者に大別されるように思います。実際のところどうかわかりません。自分は大学から始めた、さして観劇回数も交流も多くないずぶずぶの素人なので。
 これは面白い問題だと思います。私は「演劇」という言葉の「劇」の方に重きをおくタイプなので、演劇を前者のように解釈しています。もちろん、「演」がないと「演劇」というものは成り立たないですから、それを軽視しているわけではありません。一方であるからといって他方を完全に切り捨てることもできませんし、ましてや排さなくてはならないはずもありませんしね。

 今回は思考過程も含めて上手くまとめることができたので、嬉しいです。またどこかでお会いしましょう。2年濱田でした。

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