秩序ある無秩序が崩壊する間際に放つ反秩序的な喜劇の様相、あるいは仕掛けられた檸檬の爆弾
今日は発声練習、筋トレをした後は、シーン練習をじっくりと行った。公演本番も近づいており、シーン練習も細かな箇所を重点的に磨いている。演出である私は、こうしてほしい、ああしてほしいと、指示を投げていた。
指示を投げるとき、いつも忘れないことがある。舞台を完璧に仕上げたい、という想いだ。私の言う完璧とは、どんなに記憶では忘れていても体が自動的に動き、ことばが放たれる、そんな秩序の果ての無秩序のような、そんな領域のことである。私はこの完璧を自他ともに求めてきた。しかし、最近しばしば考える。それは果たして正しいことなのだろうか。刻一刻と公演が近づくなかで、私の心には一抹の不安が泡を立てている。この期に及んで、ばかばかしい問いであることは、もちろん自覚をしている。しかしそれでも、不安が収まることはない。舞台を完璧に仕上げたい。今ここにあるこの思いは、その想いに応えてきた行動は、果たして正しいのだろうか。
私は、舞台経験が少ない。経験が少ないにも拘らず、今回、演出という大役を引き受けている。それならば、せめて経験が少ないなりにできることをして、現段階で想定し得る完璧な舞台をつくりあげようと、気張ってきた。数少ない経験のなかでは、演技面での指導・助言が私のできることだった。そのため、演技指導に焦点を当てて(もちろんそれだけではないが)全力を尽くしてきた。
しかし、最近、上に挙げた不安が心を占めている。具体的にどのような不安であるのかは、はっきりとは掴めていない。もしかしたら、今までしてきた演技指導と現状の自分の在り方に何か齟齬が生まれてしまったのかもしれない。あるいは、演技指導に熱を入れるあまりに(比較して)なおざりにしてしまった諸所のものごとからの反逆に見舞われているのかもしれない。詳細は不明であるが、いずれにせよ、この不安の原因が複合的なものであることには間違いがなさそうだ。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけてい」るのである。
「えたいの知れない不吉な塊」。もちろんこれはおなじみ、梶井基次郎の『檸檬』冒頭の言葉である。主人公はその「不吉な塊」を「焦燥」だとか「嫌悪」だとか、あるいは「酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る」が、その時期が来ただとか、さまざまに表現している。そんな鬱屈とした「不吉な塊」によって、主人公は「見すぼらしくて美しいもの」、言い換えれば、安価でそれでいて主人公の趣味の「触覚」に「媚びて来る」、そのようなものに心惹かれるようになる。反対に、以前の主人公が好きであった「丸善」は、「借金取りの亡霊」のように見え、忌避するようになるのだ。「不吉な塊」に振り回される主人公は、ある日、果物屋で「檸檬」を見つける。そして、その「レモンエロウ」、「紡錘形」、「冷たさ」、「カリフォルニヤ」を思わせるような、「鼻を撲つ」「匂やかな空気」、「すべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」に、感激し、「幸福」に包まれる。「不吉な塊」もどこえやら。気分晴れ晴れとした主人公は、今ならば「丸善」にも入ることができると思い込む。しかし、「檸檬」によって充たされた「幸福な感情」は、「丸善」に足を進める度に「逃げて行った」。「画本」を手に取り開けてみるも、頁を克明に捲ることはできない。本棚に戻す気力もなく、「画本」は積み重なった。そこで、主人公はふと袂の「檸檬」を思い出す。そして、ある案を思いつき、それを実行に移した。乱雑に積み重なった「画本」を「手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげ」、「新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったり」する主人公。その果てに築城されたのが、「奇怪な幻想的な城」である。主人公は、その頂に「檸檬」を恐る恐る据えつけた。奇怪な諧調である城の色彩を吸収してしまって、「カーンと冴えかえ」る「檸檬」。その「緊張」に、主人公は眼を奪われていた。その時、主人公に「第二のアイディア」が起こる。「画本」で「城」を建て、その頂に「檸檬」を据えるという第一のアイディアに続く「第二のアイディア」。それは、この「城」を「そのままにしておいて」、「なに喰わぬ顔をして外に出る」ことだった。「くすぐったい気持ち」のなか、主人公は「丸善」を出る。そして「丸善」が「檸檬」の「爆弾」が起こす「大爆発」によって「粉葉みじん」になる想像をしながら、「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」のだった。
私はこの『檸檬』という物語において、主人公が築き上げた「城」と「檸檬」のありよう、そして、それらと「不吉な塊」との関係性が強く印象に残っている。「城」はけっして秩序だったものではない。様々な「画本」の色彩が混ざり合い、奇怪な、ごちゃごちゃとした諧調を織り成している。また、「画本」一冊一冊の大きさもばらばらであろうから、形態もきっと不揃いだろう。端的に言えば、無秩序である。しかし一方で、その無秩序は整えられてもいる。主人公は抜き、差し、建て、壊し、試行錯誤の果てに無秩序的な「城」を完成させた。それはいわば、計算され尽くした無秩序なのである。ある意味で、別なる形での秩序といえるかも知れない。いずれにせよ諧謔ないしはナンセンスの結実体として「城」は聳え立っている。
そして「城」は、頂に「檸檬」を据えることでようやく完成する。無秩序に秩序があるということを象徴するかのように、冴えわたる空気を響かせて鎮座する「檸檬」。主人公はその色や形から匂い、さらには重さに至るまで、「檸檬」の完全性を認めていた。その意味で、「檸檬」は秩序的な美しさを備える存在だ。「城」のもつ異質性と調和性とを背反させながらそれでいて両立させる「檸檬」の整然とした佇まいは、細い糸のようなあるいは敏感な天秤のような危うさがある。その危うさが「緊張」を空間に押し広げていく。
そんな緊張は、しかし、主人公の想像によってすべて打ち壊される。「大爆発」だ。計算され尽くした無秩序も、異質と調和の「緊張」も、すべてが「大爆発」で「粉葉みじん」である。何という喜劇的な終わりだろうか。秩序だの無秩序だのという議論を根本から否定するその結末は、秩序という基準・枠組みから外れている意味において、反秩序的である。据えられた「檸檬」は実は、秩序的な美しさ、秩序と無秩序とをつなぐ架け橋という役割だけでなく、すべてを打ちこわす反秩序的存在としての役割も与えられていたのである。
主人公は、そのような「檸檬」のありようによって、己が胸に宿る「不吉な塊」を紛らわせていたのだろう。「大爆発」。それまでのすべてを吹き飛ばす反秩序的な現象である。そして同時に、喜劇的なものでもあった。この喜劇性はおそらくは、過程の喪失による突飛性と、一切の爆発による胸のすくような爽やかさによるものだと私は考える。爆発に過程も意味も理由もない。爆発をするから爆発をするのであり、爆発をしたら全ては消え去る。その飛躍を前にして、私たちは笑うしかない。なんだこれはと。その飛躍的な笑いの後には、残骸以外何も残らない。大切なものもないがしがらみもない。その空白に、一筋の檸檬の香りが差し込めば、そこはすっきりとした爽やかな空間にさえ思えてくる。この飛躍と空虚による充足が喜劇性を産み出しているのかもしれない。「檸檬」の反秩序性、喜劇性は主人公の旨の宿った「不吉な塊」を、消し去ったかどうかは不明にしろ、一時の間、紛らわすことには成功したといえるだろう。
今の私は、完璧に固執しすぎているのかもしれない。秩序ある無秩序という完璧に、つまりは「城」に執着しすぎているのかもしれない。その上に据えられた「檸檬」の「爆弾」に私は、きっとまだ気づけていない。したがって、私のなかの「不吉な塊」は未だ払われていない。「檸檬」の「爆弾」が「大爆発」を起こしたとき、私が目にするのは、きっと笑いだろう。ここまでの道程すべてが吹き飛ぶ、飛躍的な笑いの爆発。「不吉な塊」もまぎれるほどの爽やかな空虚とその充足。それを想像する今の私は、きっと『檸檬』の主人公と同じ微笑みを浮かべている。
鮮やかな爆炎が、本番当日、会場中を包み込んでくれることを、私は楽しみにしている。
3年 杉本涼真
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劇団笛令和3年度新入生歓迎公演
『贋作・不思議の国のアリス』
作・松本大志郎 演出・杉本涼真
7月15日(木)20:00開演
7月16日(金)19:00開演
(30分前から入場可能)
@大学会館大ホール 入場料無料
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