花を咲かそう。
みなさんこんにちは。こんばんは。そして、おはようございます。
笛にっきを御覧になるみなさんへの、定型的とも言えるこの挨拶。この挨拶は、しかし、くりかえし唱えるうちに、だんだんと不思議に思えてくることばです。というのも、このことばの背後には、異なる時間軸という想定があるからです。この笛にっきには―といっても、“この笛にっき”に限ったことではなく、公表される文章一般に広く言えることですが―大きく分けて、二者が存在します。文章を書いている私と、書かれた文章を読んでいるみなさんの二者です。この二者は同じ時間軸には存在していません。私がこの文章を書いているまさにそのときに、みなさんは私の文章を読むことはできません。それこそ、パソコンがハッキングをされていたり、思考が盗み見られていたりしない限りは、二者の関わりには時間的な隔たりがあります。私はこの文章を朝に書いているかも知れませんし、みなさんはこの文章を深夜にお読みになるかもしれない。私とみなさんとはお互いがお互いに、いつ存在しているのか掴み切れません。だからこそ、「みなさんこんにちは。こんばんは。そして、おはようございます」という挨拶が必要とされてくるのでしょう。この挨拶ことばによって、異なる時間軸にいる私とみなさんとは、この文章を通して結びつけられます。「この文章をご覧いただいている皆さんの時計は、何時を指しているでしょうか。朝に御覧になっている方も、お昼の時間帯に御覧になっている方も、そして夜に御覧になっている方も、いらっしゃるでしょう。私はそんなさまざまな時間に生きるみなさんとお話がしたい」。このことばには、そんな共有性が含み込まれています。すなわち、このことばの許において、異なる時間軸を超えた、共有的な時間が流れる場が作り出されるということです。本当に、不思議なことばだと思います。
演出の杉本涼真です。
導入が長くなり申し訳ありません。しかし、大事なことなので、どうしても書いておきたかったのです。というのも、上の挨拶ことばが生み出す、共有的な時間が流れる場というのはどこか演劇に似ていると思ったからです。
演劇は製作者である〈わたし〉とお客さんである〈みなさん〉との関係の上で成立しています。演劇には、お客さんとしての〈みなさん〉の存在が不可欠です。みなさんにご来場いただき、そこで観劇をしていただいて、満足しておかえりいただく。それがなければ、演劇は〈わたし〉のひとりごと、単なる壁打ちに終始します。例外的に見える一人芝居もお客さんがいることは前提とされています。演劇は〈わたし〉一人では成立しません。
この〈わたし〉と〈みなさん〉とが繋がるためには、〈場〉がないといけません。ここにおける〈場〉は何も、大掛かりな舞台だけを指すわけではありません。〈場〉とは、製作者が表現作品をつくり、それをお客さんが観てくれる空間のことです。例えば、街中でも、製作者集団が唐突にエチュードを始めると、お客さんがそれを楽しみ始めたとき、そこには〈場〉が出現しています。〈わたし〉と〈みなさん〉とがひとところに集い、そこで演じられた表現作品を共有し、そのなかに没入することのできる空間。そのような〈場〉が演劇には必要です。
ここにおける〈場〉には、普段生活している世界とは異なる時間が流れていなければなりません。というのも、普段生きている世界と演劇の〈場〉とで同じ時間が流れていては、現実と虚構の区別がつかなくなってしまうためです。演劇には、台本や演出ごとに構築された世界があります。そこでは、朝の場面もあるでしょうし、お昼、夕方、そして夜の場面もあるでしょう。なかには、そんな一般的な時間の進み方をしない作品もあります。例えば、タイムスリップをしたり、未来旅行をしたりなどですね。それらの時間描写は、しかし、メタ的に見れば、現実世界のある特定の時間に表現されています。気持ちのいい朝の描写が、20:00の公演で描かれていたりすることもままあります。現実としての普段生きている世界と、虚構としての〈場〉の世界とでは、流れる時間に大きな違いがあるのです。
ここにおける時間の流れの違いを、〈わたし〉と〈みなさん〉とは受け入れている、つまり、共有しています。そうでなければ、貴重な現実世界での時間を演劇のために費やすはずがありません。〈わたし〉は、演劇を通して自己のある側面をのびやかに解放して〈みなさん〉に見てもらいたい、などの欲望から演劇という〈場〉をつくりだそうとします―もっとも演劇の動機は一言に尽きるものでは決してありませんが、何らかの欲望があることには間違いないかと思われます―。そして、〈みなさん〉は、そんな表現活動を見て何らかの感動体験を得たいと思って、演劇という〈場〉に参入しようとします。この相互受容を経て、ようやく演劇の〈場〉としての時間は動き出します。
さらに言えば、ここにおける〈わたし〉は一人ではなく複数、いわば〈わたしたち〉であるため、〈わたしたち〉のなかでもまた、相互受容があるはずです。例えば、照明をしてほしい―照明をしたい、役者をしてほしい―役者をしてほしい、などなど、互いの受け入れがなければ、〈場〉の形成はおろか、そもそも演劇を提供することすらままならないでしょう。
このように演劇も冒頭のあいさつことばと同様に、共有的な時間を生み出す場に重きがあるという点で共通しているのです。
……本日、令和三年度新入生歓迎公演の一日目を行ないました。
そこには多くのお客さんが、〈みなさん〉がいらしてくださいました。本当に多くの方が〈わたしたち〉のつくりだした演劇を観るために、時間を共有してくださったのです。
本当にうれしかったんです。本当に、本当に、本当に、うれしかった。同時に、安心もしました。お客さんが少なかったら、どうしよう。団員のみんなの努力を伝えられなかったら、どうしよう。そうした不安は嬉しいことに当たらず、実際には多くの〈みなさん〉がご来場してくださりました。途端、一日目なのに涙がこぼれてしまうほどに、肩のこわばりが溶けていきました。こころがゆるりと温まって、真っ暗な夜も仄かに明らむようにさえ思えました。
そして、〈わたしたち〉である先輩、後輩、同輩のみんなも、溢れんばかりの熱量で、演劇の〈場〉をつくりあげてくれました。役者のみんなは、声だけでも分かるほどに、生命力というか好きなことへの愛情というか、そんな力の奔流が渦をつくっていました。スタッフのみんなは、舞台の成功のため慎重に、しかし熱を帯びて準備と操作をしてくれました。役者もスタッフもみんな、この日までの歩みが逞しく表れていました。厳しい指導もしたのに、それでもついてきてくれて本当にありがとう。かっこよかったよ、みんな。
その他にも、OBやOGのみなさんや顧問の先生をはじめとした、多くの方の協力のもと、今回の公演は、共有の〈場〉は生まれました。この場を借りてお礼申し上げます。
上に書いた理屈は、このうれしさを言い表すための長い長い回り道、あるいは照れ隠しでした。端的に言えば、
演劇をつくるって、それを観てもらえるって、そしてつくるみんなの努力と笑顔が見られるってかけがえのないことで、本当、生を実感できるな!
ということです。
われながら面倒くさい書き癖ですね。
一時期は退団も考えていた僕が、ここまで演出として駆け抜けることができたのは、〈わたしたち〉である団員のみんなと〈みなさん〉のおかげです。
特に後輩たちが入って来たときの、衝撃はあまりに大きかった。コロナ下でも抑えきれないほどに高まった演劇に対する思い。熱と力の塊をぶつけられた僕は、確信したんです。「この子たちを輝かせたい」と。
昨日、舞台監督が笛にっきにおいて、「みんながいつも通り過ごせるようにする」こと、それだけが舞台監督としての仕事だと書きつけていました。
これをふまえて、僕は、演出の仕事を「みんなの力を花開かせ、輝かせること」と定義したいです。
最後まで、美しく花を咲かせる。
最後まで、輝き続ける。
そして、その喜びをわたしたちだけでなく、お客さんと共有する。
きっと、〈わたしたち〉なら、大丈夫。
そんな取り留めのないお話でした。
お時間、共有していただきありがとうございました。
演出・杉本涼真
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